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ファイナンスド・エミッションという指標がある。これは単純化して言えば、金融機関が投融資や補償で関係している先の個別企業の年間二酸化炭素(CO2)排出量に金融機関の引受比率を乗じた量を、取引先企業全体について足し合わせたものだ。「金融機関が引き起こした間接的なものも含む年間CO2排出量」と言い換えてもよい。
金融が引き起こすCO2
金融ビジネスでは業務に大規模な工場や膨大な熱や電気といったエネルギーが必要なわけではない。一見、CO2排出量は、製造業に比べて軽微であると連想されるだろう。
しかし、投融資や補償で関係している取引先にまで視野を広げれば、融資や投資、保険付与が止まってしまったとたんに多くの取引先はビジネスを継続できなくなってしまう。その意味で、「金融機関が引き起こしている年間CO2排出量は相当に大きい」ことを可視化する指標として構想された。
当然、多排出企業から低排出企業に資金供給の行き先を変更していけば、この指標の値は低下していくことになる。この構想の背後には、こうした指標の開示を促し、同時に金融機関に将来的にこの削減を目標設定させることができれば、製造業をはじめとする取引先に対してCO2排出削減の働きかけ強化につながると考える人の思惑もあった。金融機関は実体経済の変革をけん引すべしという考え方である。
しかし、日本国内では、このファイナンスド・エミッションという指標の評判がすこぶるよくない。特に違和感を表明しているのが、鉄鋼業のような現状では排出削減が容易ではない産業セクターの企業である。
今後の新技術導入や設備更新に大きな資金需要が生じるのに、ファイナンスド・エミッションという指標とその進捗管理が独り歩きすると、資金調達が困難となるのではないかという懸念が根底にあるようだ。金融機関側にも、現在の有力取引先との関係を悪化させたくないという思いがにじむ。
金融庁・経済産業省・環境省は10月、「ファイナンスド・エミッションの課題解決に向けた考え方について」と題する文書を公表した。そこでは、「ファイナンスド・エミッションの算定・開示手法」と「ファイナンスド・エミッション以外の指標の開示手法」の2つに分類して整理、提示された。
具体的には、現状で排出削減が容易ではない産業セクターの企業分や関連する新技術導入・設備更新のためのプロジェクト分のファイナンスド・エミッションを別掲することや、関連する新技術導入・設備更新のための投融資額を並行開示することなどが提案された。追加的な工夫の余地が示されたといえよう。
「貢献」の曖昧さ
ただ、ひとつ留意しなければならないのは、盛り込まれた「特定の技術活用を通じた削減貢献量」や「GHG将来削減効果」を算定・開示していくアイデアには、曖昧さや本質を見失わせる可能性が付きまとうということである。そもそも「貢献」や「効果」を過去や未来に当たって算定するとは、その特定技術やその対象ファイナンスが「仮になかった場合」との差分を求めることを意味する。
ただ、その「仮になかった場合」は実務的には相当、恣意的に決めざるを得ないという側面がある。さらに、将来の「貢献」や「効果」は、技術導入や画期的な製品・サービスの普及すべてがうまくいったときの仮定に過ぎないという不確実性を併せ持つ。「貢献」や「効果」をうたうことで、炭素中立への着実な進捗管理が相対化されてしまうことが果たしてないと言い切れるだろうか。
いま、気候変動対策を議論する前提が揺らいでいる気配がある。しかし、本質は大気中のCO2濃度の上昇をいかに抑制するかにある点を再確認すべきだ。
大気中のCO2濃度が過去40万年間のどの時点よりも高いこと。この濃度上昇は化石燃料の燃焼と驚くほど一定の関係を示しており、化石燃料燃焼による排出量の約60%が大気中にとどまること。化石燃料の燃焼がこのまま継続し、人類が今後数世紀にわたって埋蔵量を使い果たすと、CO2炭素濃度は1500PPM程度のレベルまで上昇し続けると予想されること。そうなると数万年先でも大気は産業革命前のレベルには戻らないことなどが科学の有力な見解である。炭素中立をできるだけ早期に実現するとともに、そこに向けた着実な進展をいま示さなければならない根拠は、ここにある。
「気候憂慮論者」増加
炭素中立という頂上をもつ山の登り方はひとつではないという指摘は確かに間違ってはいない。しかし、その意味は足元の排出量の推移に無頓着であってよいということではなく、将来、削減できるだろうからと目先の排出が少し増えても構わないということでもない。
最近、「気候憂慮論者」という表現がメディア空間で再び増加しつつあると感じる。炭素中立に向けた方法論の巧拙に関する議論が深まることは歓迎されてよいが、足元の排出量推移への関心を失わせてしまう副作用には、十分、配慮すべきだ。
「不確実な遠い未来の心配より、いまどう生きるか、希望的かつ現実的に」という見方に、「ありたい未来は定まった。その前提で、どう生きるかを考えるしかない」という見方が駆逐されてしまうのでは、結果は決して生産的ではないだろう。
有事の時代に環境政策を貫徹することの難しさは肌身に染みるが、「他の先進国も、理想と現実のギャップにようやく気付きだした」と、これまで野心的な政策を避けてきた日本が自己満足してしまう空気がある。次世代からのまなざしを念頭において、いかばかりかの警鐘を鳴らしておきたい。
日経産業新聞(日本総合研究所常務理事 足達英一郎氏)論説から抜粋引用
上記論説での「気候憂慮論者」とは『気候変動否定(懐疑)論者』のことのようです。気候を憂慮する者という意味で取り、気候変動を憂慮し、脱炭素を推進したい人だと勘違いして読んでいて最初意味がわかりませんでした。上記論説には色々言いたいことはありますが、気候変動を憂慮し、未来の人類の為に脱炭素運動を鼓舞されているのだと受け止めています。SCN:伊東